メルマガ登録 会員ログイン

勝北郡初代郡長「安達清風」の屋敷跡と頌徳碑

町指定史跡 (平成5年1月6日指定)
上町川字日本原野

この屋敷跡は、国道53号線の南側の自衛隊演習場内にあり、広戸風を防ぐ土塁(高さ3m)を巡らせている。
清風は天保6年(1835)鳥取市寺町で生まれた。号は宅廣。彼の父辰三郎は300石の勘定方元締め役であった。文久2年(1862)父が死亡し、清風が家督をついだ。清風に対する藩主慶徳(慶喜の兄)の信頼は厚く、彼を京都留守居職に任命した。当時の京都は、佐幕派と倒幕派の対立抗争に激しく揺れ動いていたが、清風はみずからその渦中に飛び込み、鳥取藩の立場を有利にする方策を求めて活躍した。
明治8年(1875)知友岡山県令高崎五六の要請を受けて岡山県庁に入り、明治10年(1877)2等警部として津山に赴任した清風は、日本原の高原に着目し北海道で果たせなかった開拓の夢をここで実現しようと決心し、自ら勝北郡長となり開拓に着手した。開拓は失業士族の救済もかね鳥取・浜田・岡山の旧藩士を呼び寄せ、政府からは資金2万5千円を借り、県からは西洋式の農具を借り受けて開墾に着手したが、土地は火山灰土という痩せ地であり、士族農法のため脱落者が相次ぎ、清風も明治17年(1884)業半ばで死亡(49歳)した。
薪炭材として導入されたニセアカシアは刺のため利用できず、繁殖して開拓の障害になったため土地の人はこれをアダチゴロシとよんだ。しかし、彼の導入した養蚕業は後に県下第一の産地となった。また子弟の教育のため郡内各戸長の賛同を得て、明治12年(1879)「有功学舎」を郡役所の近く(勝北町上村の朝吉神社境内)に設立した。片山潜(久米南町出身)もここで学んだ。
頌徳碑は昭和8年(1933)清風の50回忌を記念して地元の有志によって建立された。

【写真】左上:森英太郎 右上:安達清風

勝北郡初代郡長「安達清風」の屋敷跡と頌徳碑

※『奈義町の文化財』(奈義町教育委員会発行 2003年2月)より

 

周辺地図を開く(OpenStreetMapへ)

電子図書館メニューに戻る

会員ログイン メルマガ登録