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さんぶたろう伝説テキスト

書名:大いなる巨人の伝説 第1部
各巻書名:さんぶたろう成立の謎
著者:書 智(ふみ あきら)
発行:奈義町立図書館
2001年8月1日発行/2007年9月7日改訂
(目次ここから)
はじめに
第1章:史実と伝説のはざまで
1-1節:さんぶたろうの伝説
1-2節:伝説のアウトライン
1-3節:三穂太郎記
1-4節:蛇淵の伝説
第2章:実在の人物 菅原三穂太郎満佐
2-1節:三穂太郎は何者か?
2-2節:太郎の母は何者か?
閑話休題(1):たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて
閑話休題(2):ナーギニー=インドの蛇女神
閑話休題(3):ふたりの太郎=さんぶたろうと小泉小太郎(2012年10月18日追加)
引用・参考文献
(目次ここまで/本文につづく)

(本文ここから)

はじめに

さんぶたろうは伝説では精霊と土地の男との間に生まれた混血児です。
異類女房譚(蛇、鶴、天女など、人にあらざるものと人の男性とが結ばれるお話)では、多くの場合、妻(異類)と夫(人間)の関係が主であり、二人の間に生まれた子どものその後について、あまり語られることはありません。
それに対し、さんぶたろうのお話では、主人公は大蛇の子たろうですし、物語の前半部分では、妻である大蛇が夫を上回る存在感を顕わします。
その血につながる人たちが多数あり、現に那岐の地で栄え続けているという点でも稀有な伝説といえます。
とにかくスケールが大きく、筋立ての分かりやすいお話なのに、今ひとつメジャーになれない理由のひとつに、今までこの伝説が、単に蛇女房とだいだら法師の昔話を合体させただけのお話と考えられていたことがあるでしょう。
また、例えば同じ中世に生きた英雄である源義経など広い地域に足跡を残した人物とことなり、主人公さんぶたろうのモデル菅原満佐(すがわらみつすけ)が地域密着型の英雄であることが、美作地方以外の人に今ひとつその存在をアピールしにくくさせる原因の一つになっているのではないか、と思います。
ある伝承が地域を越えて、多くの人たちの興味と共感を呼び起こすには、人々に共通の普遍的なテーマを持っていること、そしてその伝承が人を惹きつける「謎」の部分をどれだけ残しているかが重要なのではないかと思います。
有名人の私生活のように、はっきりしないから気になる、隠れているからよけいに知りたくなるのと似たようなものかもしれません。
筆者が、さんぶたろうに強く心惹かれたのも、さんぶたろう伝承のいまだ明かされていない(と筆者が思っている)、もしかしたらこれからも明かされることのない「謎」の部分なのです。
本稿では、さんぶたろうの世界を知っていただくため、作北各地に残る伝承と、実在のモデルである菅原三穂太郎満佐〔すがわらさんぶたろうみつすけ〕について紹介した上で、伝説の源流とその背後に隠された編纂意図について考えていきます。
また本稿を執筆するにあたっては、切り捨てざるをえなかったアイデアもありました。(ようするに、イメージばかりが暴走して収拾がつかなくなっただけですが)
そのうち、面白そうなものについては、『閑話休題=intermission』と題して、本編とは切り離した形で載せることにしました。
なにぶんにもアイデア先行で今となっては証明しようのない事柄も多く、推測や憶測にとどまる部分が多くなってしまいました。
ですが、もしかしたら読み進む内に、10に1つぐらいの真実に出会えるかもしれませんので、読者の皆さんには最後まで気楽にお付き合いいただけたなら幸いです。
また、「巨人(さんぶたろう)」「蛇(たろうの母)」という二つのキーワードに沿って稿を進めた関係で、たろうの父についてはほとんどページを割くことができませんでした。機会があればゆっくり取り上げたいと考えています。
本稿が皆さんにとって、聞きなれた郷土の伝承が持つ、隠れた魅力に気づくきっかけになればうれしいです。
(「はじめに」ここまで/凡例につづく)

 

凡例
(1)本文中、「さんぶたろう」の表記にあたっては、史上の人物として表記する場合は漢字表記に統一した。また、伝承上の存在として表記する場合には、ひらがなに統一した。
(2)引用文中の神名、人名、地名等の固有名詞の表記については原則として底本に従った。そのため、同一の固有名詞でも読み振り、漢字表記等異なる場合がある。
(凡例ここまで/第1章につづく)

 

第1章:史実と伝説のはざまで

1-1節:さんぶたろうの伝説
さんぶたろうは、岡山県那岐山麓一帯(現在の勝田郡勝田町・勝央町・勝北町・奈義町などを含む、美作地方東北部)を中心に語り伝えられる巨人伝説である。
初めての方に誤解を承知で少々荒っぽく説明すると、中世鎌倉時代末期に実在したといわれる菅原三穂太郎満佐〔すがわらさんぶたろうみつすけ〕-この地方に勢力を張っていた武士団「美作菅家党」の首領とされる-をモデルに、蛇女房とだいだら法師、蛇婿入りの伝説を加えたお話を想像していただければ、いくらか近いかもしれない。
※注釈1-1a:美作菅家党→13世紀末から16世紀末にかけて、美作地方東部に勢力を張っていた地方武士団。『東作誌』などによれば、美作国に配流された菅原道真の後裔知頼の子孫満佐が祖とされる。(注釈1-1aここまで)

 

おそらくこのページを見てくださるほとんどの人にとって、はじめて耳にする名前ではないかと思う。
そこで、伝承の内容については第2部で考察するとして、ここでは当地に残る伝承のアウトラインとさんぶたろうのモデルになった実在の人物菅原三穂太郎満佐の人となりについて紹介していきたい。
(1-1節ここまで/1-2節につづく)

 

1-2節:伝説のアウトライン
菅原道真の子孫を名乗る男が、菩提寺で女と出会い、太郎丸という名の男児をもうけた。
※注釈1-1b:浄土宗高貴山菩提寺→那岐山の中腹にあり、行基によって開かれたと伝えられる。『菩提寺古今録』によると延暦24(805)年まで法相宗、承安4(1173)年まで天台宗、寛文5(1665)年まで浄土宗、明治6(1873)年までは真言宗であったという。「法然上人行状絵図」や「元亨釈書」などによれば、浄土宗の開祖法然(1133-1212)は13歳で美作国を出て比叡山にのぼるまで、伯父にあたるこの寺の院主観覚の元にあった。奈義町高円地区。(注釈ここまで)

 

女は太郎に乳をやるときだけは産屋をのぞかぬよう男に約束させたが、我慢しきれなくなった男は、とうとう産屋を覗いてしまった。
そこにはとぐろを巻いて太郎に乳をやる大蛇が…女は蛇精だったのである。
正体を見破られた大蛇は去り際、山を八巻きして約束を破った男への恨みをあらわした。以後、大蛇が消えた山=能畝山〔とかりやま〕は、八(鉢)巻山と呼ばれるようになった。
※注釈1-1c:八(鉢)巻山→さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。那岐山の支峰については位置のはっきりしないものも多いが、菩提寺の南西付近を指すといわれている。(注釈1-1cここまで)

男は太郎を連れて山中をさまよい、やがて淵のほとりで大蛇に再会した。
大蛇は五色に光る珠を差し出し、太郎が乳をほしがったらこれをしゃぶらせるように伝えると、淵の中へ消えていった。大蛇が消えた淵は蛇淵と呼ばれるようになった。
※注釈1-1d:蛇淵→さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。(注釈1-1dここまで)

その後、珠の霊力でぐんぐん成長し、雲も突き抜けるほどの巨人になった太郎は、仙術を自在に操り、三歩で京まで行き交い、奈義の地にいながら禁裏の護衛を勤めたので「三歩太郎」と呼ばれた。
この地方きっての勢力者になった太郎は豊田姫との間に七人の男児をもうけたが、一方で播州の佐用姫の元にも通っていた。
ある時、豊田姫に嫉妬した佐用姫が草履に仕込んだ針で足の裏に傷を負った太郎は、それが元で死んでしまった。
※注釈1-1e:精霊である大蛇の血をひくたろうは金気に弱かったと伝えられる。また草履に針を仕込んだのは、佐用姫に横恋慕した頼光という男であったともいわれている。(注釈1-1eここまで)

大地に倒れ伏したなきがらのうち、頭は関本の里、胴体は西原の里、かいな(腕と肩)は因幡の土師、右手は梶並の里へとどまった。
また血は川に、肉は黒ぼこという肥沃な黒土になり、息吹は北大風をよんだ。
地元の人間は、那岐山から吹き下ろす大風を「さんぶたろうが吹く」と呼んで恐れ敬ったという。
※注釈1-1f:さんぶたろうに関するさまざまな伝承
前記のほかにも、岡山県奈義町、勝田郡、美作地方東北部一帯には、さんぶたろうに関する伝承地が数多く残っている。(『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)から引用、または参考にした。)
A.地名に関する伝承
(1)頼光(よりみつ):さんぶたろうの恋敵である頼光の在所。奈義町西原地区。
(2)豊田屋敷:奈義町西原地区、柿地区へ越す古道の谷頭地。さんぶたろうの妻小菅戸のいた豊田氏の住居地という。
(3)さんぶたろう屋敷:那岐山頂、あるいは是宗川上流、是宗城(細尾城)の北方人形石より戌亥の方角の山頂にあったといわれる。
B.さんぶたろうの死に関する伝承
(1)さんぶたろうが吹く:かつて北風のつよく吹く日には「さんぶたろうが吹き出した」と言った。彼の死にあたり吐き出した息吹という意味。
(2)くろぼこ:那岐山麓一帯の肥沃な黒土を「くろぼこ」と呼ぶ。さんぶたろうが死んだ後、その肉や血がくさってできたものといわれる。
(3)「じやがたに」または「ちあらいのたに」:さんぶたろうの死んだ時、那岐山の一角が崩れてできたといわれる。また一説には鎌倉山城の北方のこの地で戦いがあり、その血をあらったために「血洗いの谷」というともいう。
(4)山麓に点在する巨石群:さんぶたろうが死んだ時那岐山が崩れて飛び散ったものといわれる。
(5)さんぶたろうの四方に飛び散った亡骸を祀ったところ
イ.三穂神社=三穂大明神。さんぶたろうの頭部を祀る。別名「こうべさま」。奈義町関本地区。
ロ.杉神社=荒関大明神。さんぶたろうのあら(胴体)を祀る。別名「あらせきさま」。奈義町西原地区。
ハ.河野神社=さんぶたろうの肩の部分を祀る。そのため肩や手の病気にご利益があるという。別名「若一王子権現=にゃくいちさま」。鳥取県八頭郡智頭町土師。
ニ.右手大明神=さんぶたろうの右腕を祀る。勝田町梶並(現美作市)。ここにいうさんぶたろうは、源氏の落ち武者近藤武者是宗の子三穂太郎勝正をさす。
C.さんぶたろうの行動に関する伝承
(1)さんぶたろうのせっちん岩:是宗の奥の谷間に岩がかたまっており、さんぶたろうが谷の稜線をまたいで排便した跡といわれる。また那岐山頂三穂太郎屋敷から巽の方角に井戸、南の方に長さ八間横六間の厠と呼ばれる黒石があったともいわれる。
(2)さんぽたろうの名の由来:さんぶたろうは三歩で都まで行ったので三歩太郎と呼ばれたという。
(3)さんぶたろうは、那岐山頂に腰を下ろして、瀬戸内海で足を洗った。
(4)さんぶたろうは、那岐山に腰を下ろして因幡の賀露の浜で足を洗った。
(5)さんぶたろうは、那岐山と備前の八塔山(和気郡吉永町〔現備前市〕)をひとまたぎした。
(6)さんぶたろうが那岐山をまたいだとき、ふぐり(陰のう)がふれて山頂の一部がへこんだ。
(7)中島西津山渡瀬の北方の淵:さんぶたろうが那岐山と八頭寺山をひとまたぎした時、金玉がこすれてできたといわれ、現在は河川改修のためなくなった。奈義町中島西地区。
(8)きんたま池:現在は約十坪ほどの小池であるが、湧水があるため、早魅時にも決してかれることがないといい伝えられている。さんぶたろうの金玉を押しつけた跡が池になったといわれる。この池より南方にわたり、かつては窪地となり、沼澤乃至湿地帯であったようである。奈義町滝本地区八軒屋。
(9)津山市瓜生原:さんぶたろうの金玉によってできたといい、山の斜面に禿地があり「きんすり」という。
(10)小鞠山:さんぶたろうが都に上る時、草履より落ちた土塊が転がってこの山になったといわれている。
(11)さんぶたろうの足跡に関するもの:
イ.さんぶたろうの第1歩=滝山の四方に樹木のあまり生えぬところあり、「さんぶたろうの第1歩」であるといわれる。
ロ.さんぶたろうの第2歩目=勝央町植月地区長良池南方の巨石に足跡の形の凹みがあり、これが「さんぶたろうの第2歩目」の跡といわれる。
ハ.さんぶたろうの足跡=現在の那美池あたりにさんぶたろうの足跡と呼ばれる20間四方の足形地があったといわれている。奈義町宮内地区道林坊。
ニ.さんぶたろうの足跡=さんぶたろうの足跡といわれる八間四方の貯め池があり、夏冬とも水が涸れなかったという。奈義町柿地区逧谷。
ホ.跡田=西原の南、柿に接する谷間にあり、さんぶたろうが都に上る時の第1歩の足跡といわれ五畝ばかり足形様をしていたが、現在は整理されて原形をとどめない。奈義町西原地区。
ヘ.さんぶたろうの足跡田=勝北町安井地区(現津山市)。
ト.さんぶたろうの足形石=綾部村熊井谷の内西畑に在り、さんぶたろうの古跡といわれる。
チ.さんぶたろうの足形=昔、荒内西新地の東に窪地があり、さんぶたろうの足形と呼ばれていた。現在は水路の工事などにより原形をとどめない。
D.さんぶたろうの食事に関する伝承
(1)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:西原字細田の川の中の巨石。高さ幅とも2メートル超。奈義町西原地区細田。
(2)さんぶたろうの飯行李に入っていた石:勝北町こえがたわの奥津川寄りに牛よりやや大きいくらいの石がある。
(3)さんぶたろうのおかゆに入っていた石:ひと抱え以上もある表面が滑らかな石で、現在は某家の墓の台座になっている。奈義町滝本地区長谷。
(4)蛇淵の南方、川縁の石:さんぶたろうがいりこを食べる時、碗を吹いたら飛び出した石といわれる。
(5)さんぶたろうのお櫃石:人の身長位の高さがあり、飯をすくう杓子の跡があった。近藤村(現在の奈義町滝本地区)の久保田にあったが、那岐池構築のとき石垣用に砕石された。
(6)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石:那岐山大神岩の下方にある黒石。
(7)釜田:昔、盗賊がさんぶたろうの釜を盗んだところ、にわかに大雨が降り出したため持ち帰ることができず、その場に置き捨てていった。その場所は釜田とよばれるようになり、捨てていった釜が今も土の中に眠っているといわれる。
(8)右手奥の坂の石:さんぶたろうが立石に腰をかけ昼飯を食べていた時、弁当の中にあった小石。箸ではさみ投げ捨てたところ、向かい側の奥の坂に落ち、地面に食い込んで止まったものといわれる。(現美作市)
(9)曾井の大岩:さんぶたろうのいりこの中に入っていた石といわれる。勝央町曾井地区。
E.その他の伝承
(1)双子山:さんぶたろうが力試しに二つの山をかついだところ、もっこの緒が切れてできた山といわれる。
(2)十王堂の十王像:きわめて古い時代のものといわれ、土の中から頭を出しているのはほんの一部分に過ぎず、実際の目方・大きさははかりかねるほどといわれる。もともとさんぶたろうが背負っていたものを落としたことに気付かず、そのまま通り過ぎてしまったため、以来ここにあるという。また別の言い伝えではある人が、川の中に光るものがあるのを夢に見、それが元で発見されここに安置されたともいわれている。勝央町岡地区。
(3)疣(いぼ)池の岩:岩に空いた孔から水が湧き出て池を成しているといわれる。さんぶたろうの杖の跡といわれ、ここに精米を入れ、その水でイボを洗うとたちまちイボが落ちるといわれている。勝田町真加部地区(現美作市)。
また岩は、余野と真加部の境界、梶並の水中にあって直径1尺ほどの丸い穴(砂などで深さはわからないという)があるといい、疣池様の石を借りてきてイボをさすり、治ったら石3個をお返しするとよいといわれる。
(4)杖の跡石:国ヶ原にあり、さんぶたろうの杖の跡という。津山市綾部地区。
(5)しおの下さま:さんぶたろうが牛に乗ってふもとから担ぎあげたと伝えられる。高さ十メートルぐらいでふもとの石には牛の足形が残っている。
(6)さんぶたろうの飛礫石:和田村の境にある直径八尺ほどの大岩。
(7)跡岩:連光寺の奥にあり、長さ8尺、幅7尺、厚さ五尺の黒岩。人の足跡(8~9才ぐらいの童子の足跡のよう)と馬の足形があり、さんぶたろうが那岐山から後ろ向きに投げたためこの地にとどまったという。
(8)さんぶたろうのちんぽ石:広岡の大谷池の北方、あたご様の上方にあり、全高約一メートル超の石。男根に似ている。
(9)蛇淵:さんぶたろうの母はこの淵の主であった。那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コースが通っている。
(10)八(鉢)巻山:さねかねが、さんぶたろうの母(大蛇)との誓いを破り産屋を覗いたため、正体を見破られた大蛇は、この山を八巻きして怒りをあらわしたという。能畝山(とかりやま)ともいう。(注釈1-1fここまで)
(1-2節ここまで/1-3節につづく)

 

1-3節:三穂太郎記
※注釈1-1g:三穂太郎記→『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)より。本書によれば、底本は1969年3月、奈義町宮内地区、吉元萩子氏蔵の文書より転書したものとある。(注釈1-1gここまで)

 

爰に美作国豊田の庄に、三穂太郎光佐と云人あり。
其先祖を尋ねるに、前伊豆守菅原秀治郎近衛院の勅勘を蒙り、此国に下り保師と名乗られける。
其子兄弟三人武勇を顕わし勝田郡五ケ庄を押領しけり。
二男治郎長次其子ヲ久常といふ。
其子を実兼といふ。
其子を近藤武者是宗ト云フ。
是宗文武両道にたつし、和歌のみちにもたつし、殊に双なき美男也、頃ハ弘長三年三月十八日菩提寺の観音へ参詣有しが、折しもサクラの盛にて花見の御遊を催しける。
近郷の老若男女へだてなく袖をつらねて並居たりける。
其中に年の頃二十ばかりの女凡人とも思はれぬ。
肌にはしらむく上には重あやを四季のもよふに染なし春もようようあけぼの染霞に匂ふ梅がゑに、初音を知らす鶯茶左右の袖ハ夏来にけらし白妙の卯の花色に、腰のもようは目にはさはやかに見えねども、あきの千種の花紅葉妻恋鹿もかわいらし、裾も浪速のあしの葉に積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に鴛鴦の浮寝のおもひはに思ひ染しよの心かや、いとたわやかな其の姿、腰ハ柳の春風にゆられゆられる風情して、露をふくめる海道(棠)のほころびかかる目元にて、かつらの眉すみほそほそと丹花口びるあざやかに、芙蓉のまなじりいとけだかき誰が袖ふれしかをりにて、心ときめくばかりなり。
近藤武者是宗ハ此姫を見るよりも情の心催して、飛び立つごとく思へども軽々敷言葉もかけがたく、見慮にながめ居たりが、懐中ヨリ短冊を取いだし、
一首の歌に云
春毎に見る花なれど今年より  咲きはじめたる心地こそすれ
と詠じ首を書て姫の側なる桜の枝に結び付さけ、片原なり寺へ行僧に長光坊といへる出家あり、物堅き成人なれば招き寄て、あれなる女を知り及ふやと尋るに、長光坊答て云様ハ、此程折々此寺へ参らるるといへども、何国いかなる人ともいまだ知り申さず、去ながら御用あらバ仰付られ候得といへば、夫ハ又近頃添仕合拙者今日見恋に心のもつれ解やらすさしもつれ、泪の川の渡しもり。と書いて渡し出家に似合ぬ事ながら宜敷はからいくれ、程能調ふ物ならば恩賞をへんとて頼ミ、又短冊に一首の歌を書て、枝高き花の梢も折バおれ及ばぬ恋もなるとこそきく。是を渡しけれバ長光坊頓て姫の元へ行、先刻此短冊を拾い見申所美敷手にて書かたれども。恋の歌内へ出家が持てハよろしからず差上げ申は、御手本に遊ばし候得と何気なく差いたしければ、姫は手に取つくづくと見て申されけるは、足ハ御出家にハ媒頼まれけるかな、か様の物貰ふ身にて非ず差返しければ。長光坊取あへず一首
いい捨る言の葉までハ情あれ 只いたずらにくちはつる身を
と詠じければ、姫は独言の様に申けるハ
心こそ心まよわす心なれ 心にこころ心ゆるすな
と書申ける。長光坊かへり此よしを語りければ又、
恋すれど人の心のとけぬには 結れながらかへる玉づさ
と書て、これを送り見候へと渡しければ、長光坊又姫の元へ行、差出しけれバ此度ハ得と見てまた返しの歌を美敷手にて書ける。
変るともぬし有人ハ觧ましき、結ぶ神のゆるしなければ
と書て渡し、はや日も夕暮になりけれバ何国ともなく帰りぬ。長光坊も返し歌ヲ受取てすごすごとかへりて、近藤武者に渡し、かく語りけれバ是宗大ニ悦ひ此上ハ宜敷頼むと申置、家来引ぐし立帰りけり。扨此後細々なる文を認め、折々此寺へ参るを待て長光坊が取次しける文の奥ニ
わりなしや嬉しきものなぐさまで 又一筆にそふおもいかな
あわれとも人の心のなさけあれな 数ならぬにはよらぬなげきを
又姫のかへし
哀とて人の心にゆるしあれ なかずならねともままならぬ身を
又是宗つかわしける文の奥に
海も浅し山も本をなし我恋を 何によそへて君にこたへん
又送る是宗の文の奥に
くれなひに泪の色のなり行を 幾しを迄も君にとはばや
又姫のかへし
一花に思ひ染めたる紅の 泪の色ハさめもこそすれ
近藤武者是宗ハ此外幾度となく年月を重ねて、よれつもつれつ六ツヶ敷色ニ口説の歌をかき、数限りなく送るといへども、逢べきかへしの筆づさみもなく心つよき返事ばかりにて、引事もたとへ事も情も心も盡果て、貴来る恋にやつれつつ、最早露の命の置くべきかたもなく、文も言葉もかかれぬゆへ集歌にてつかわしける。
する墨も落ちる泪にあらハれて 恋きたにもへもかれぬ
待詫て二とせ過る床の上 猶かわらぬハ泪なりけり
恋しきをいかがわすへきと思へども 身数ならず人はつれなし
胸はふし袖は清める関なれや 煙も波も立たぬ日ぞなし
永久しきは蔓を限りとかきつめて せきあへぬ物は泪なりけり
此歌をかいて遣しければ、姫も打觧たる躰にて返しにはんじ物をおくる。
如此のはんじ物、是宗つくづくと見てモのと書いて四ツあるは、しもの三ヶ月は弓張る月、刃の下に忍ぶとゆふ字なればしもの弓張月に忍ぶとハ二十三日の夜忍来るとの事なり。はんじおふせて思ひの煙むべに消、心のにごりすむうれし嬉しき、急ぎ菩提寺に行、観音のお影ならんと伏拝み、長光坊にも一礼なして、其後恩賞を与へんとせば、還俗して是宗の姫となり長光坊を其儘に、細川長光と名乗らせ武名顕わしたるは此僧の事なりとかや、則関本村長光の屋敷とて地名のみ残れり旧跡有、扨近藤武者是宗は二十三日の夕くれを、誠に千年を待心ちして程なく其夜に成ぬれば、はたして彼の女忍び来り、家来に案内あれバひそかに一間へ伴ひつつ、蜷子ヲ取揃へささのむささのふし間も、肩の情の新枕おふが別れの始めとて、ならひとはあさましき、其の夜の袖はぬれ衣、つらつら思ひし胸晴れて、嬉しきあまりに是宗一首
うれしきもつらきもおなじ泪にて おふ夜の袖ハなおぞかハかぬ
女とりあへず一首
仮初めのしののをささぬ一ふしに 寄かかりきと人に語るな
此時是宗尋ねけるハ、過しころ見染しより年月、文玉づさを通すといへども、何国如何なる人ともいまだしらず、斯情に預る上ハ如何なる人にもせよ苦からず、身の上を語り聞せ候へと問けるに、女申様ハ、わが身の事は儘ならぬ者なれば、有様物語り候へば、君の御為に宜しからず、去りながら深き御情に預る上ハ、つらつら何の仇には存じ申さず、是れよりハ此館へ忍び申すと、つきぬ言の内に寄るもふけ渡りて、鳥のこへしけば是宗一首の歌
契り来て逢はる夜半の程もなく あわれも知らぬ鳥のこへかな
女の読みけるハ
己が音につらき別れハ有とだに 思ひも知らで鳥の明らん
と読みてその夜ハ別れぬ。それより幾度なく忍び通い月日も重なりけるが、有夜女の物語りに、仮の契りも重ねて、懐 胎の身となりしとおぼへ候よし語りければ、近藤武者是宗悦びて、さもあらばいまよりは、わが館の妻と定めん、帰る事なく昼夜ともに此家に居なんとすすむれバ、我身事いわれ有身の悲しさ、さ様には成難し、しかし御子は産て後養育して成長なし候ハんと申帰りぬ。日行月来りて、すこやかなる男子生まれければ、名を太郎丸とつける。その後三才に成迄此母七日めの夜なくなく太郎丸を抱いて、是宗が館へかよいける。ある夜其子に添て残し置かへり遺す処の歌
逢初し嬉しき事の有りてまた ならひつらき別れ成けり
人ならず人たる人に人たらで 人たる人の親もやいうらん
身の上は浦島が子の玉手箱 明ていさそ反悔しかるらん
君が為かりの契りも不志明て 日影の花も顕れけり
恋しくバなぎの谷川住とみよ かわる姿も人目をゝなる
扨是宗ハ此歌を見て、扨こそ扨こそ年月馴し夫婦の中、よるの寝覚の睦言も、名所語らぬ一ッのふしぎ、斯事ハ今更に驚くべきにあらねども、今別れてとは残念や、百千万の心をこめし此歌ハ皆深き意あり、しりヘの一首 恋しくば名木の谷川住むとハ、奈義川に住物ならん。ここに大なるなん所あり。
此所へ来りなバ逢んとの事なりと案またしても、いかなる変化のものにもせょ、此子が為にも親子の別れ、我も名残を惜しまんと、かいかい敷も身こしらへ我が子を脊におひながら、只一人忍び出て奈義の裾野をたどりつつ、大成さして登り見れ其子細なかりけれバ、太郎丸が母恋し、太郎丸が母恋しと、そこよここよとかけまわり、大聲上て呼び叫ぶ。
片原なる大石に腰をかけて、しはし休らひ居る内に、不思議なるかな俄に秋雰立込て、いと物凄くさわがしく、やゝ有りてはれ行雰の下よりも、きのふの姿引替て頭は其儘ここに居て大蛇の形あらわれ、畝の山を八廻り、物すさましきその其の有りさま

関本村削弓之間に有りける八巻の左の左并ニ蛇淵のいわれ
附「大なるが野」
時に是宗言けるハ、扨々恐敷形を見せる物かな、今一度元の姿見せたまへと泪を流し申しける。
彼の大蛇答て曰、かかる恥敷身にして、仮にも君に情を受けたる事、定めて悪しとや思召さん、是が此の世の御暇乞、さらばさらばと名残おしやとばかりにて、名木川の滝壷へ飛入失にけり。
かへせ戻せと呼はれど、更に答もなかりけり。悲歎の涙に暮たりしが、我子共に此儘に、こがれしにせんよりハ、滝壷に身を沈めて逢て後溺死てなり共、せめてのはらいせせんものと、身の毛の逆立我子ヲ小脇にかいはさみ、なんなく彼滝の本へうかがい寄、水底白眠で居たりける。共時不思議や滝つぼの水中より青黄赤白紫の五ッの色のあざやかなる一ッの玉、逆巻水の勢に浮かび出たり。
夫と見るより太郎丸、あれよあれよと手招きす、ささゑさせんと取上渡せば夜の別れの其時より、是迄見ざりし笑かを悦ふ躰を感じ入。
扨ハ母が心をこめし此玉ハ、我子へたまもの賜りしか、此上恋ひ慕ふは未練の迷ひと漸々に、思ひ切飛が如くニ我が家をさして帰りけり。
蛇淵のいはれ此事なり。末の世の今に至りても、蛇淵に雨こい祈りけれバ三日の内に雨ふらずという事なし。又、能畝の山を大蛇八廻り巻たるいはれ有に依テ、共後此山を八巻とも言伝ふるなり。又太郎丸が授かりし玉、五ッの光を顕すヲ以テ五光の玉と号く。
則今菅家に代々傳りし名玉なり、太郎丸常に肌身を離さずして成長して、凡人ならず、飛行自在の通力叶ひ、妖術に等敷三穂太郎光佐とて、名を満天に輝かし、其身此国に居ながら京都禁中の守護をし、玄番頭の勅任を蒙り、三歩に行通ふに依て、三歩太郎とも申伝ふ、豊田修理進の娘を妻として、男子七人有り。
依テ菅家七流の祖といふなり。
嫡男有元太郎佐高、二男福元彦治部(郎?)佐長、三男原田彦三郎佐秀、四男広戸主馬之助近長、五男弓削蔵人頼光、六男垪加六郎定宗、七男菅田七郎年信、何れも秀でたる人々にて、武勇を顕し、威を国中に振ひ、皆それぞれ取領を得たり。
光佐ハ美作守りに任して、名木山の絶預近き所に城を築き、其屋敷跡有、東西二十五間、南北拾五間、西北東に堀有。
西の方に二十三間の馬場有、南の方に書院の跡有、両方長サ入間横六間里石有、此三穂太郎ハ齢かたぶく頃迄も、不老不死容体にして、智仁勇の武威有て、七珍万宝を集めて其身ヲ全して、いと栄花に暮らし肩を並る人もあらざりしが、爰に庄内西原村といふ所に、一族光奥と申人あり、光奥の娘に小菅戸姫として、容体古今無双の美女有ける。
三穂太郎栄耀のあまり、彼の女の元へ折々忍び通ける、又同じ村に頼光といふ人あり。
是も同く彼の女恋心を寄、忍び通ひける内、双方ねたみの心でき、有時三穂太郎が忍び入りしを知って、はき来りしぞうりに針をさし置ければ、光佐斯共知らずかへりさに、彼の針を足の裏に踏たて、此痛ミ頻りにして  種々療治を尽くすといえ共身体大きに悩乱して、変化三体を顕し、五色の息を吹出し、庄内近郷迄四五里四方雲霞満たる如くに成りけり。
うなりける聲震動雷に異ならず、暗き事三日三夜にして名義山を枕として其身ハ豊田の庄内に倒れ臥す。
此時所々に大岩崩れ飛去り、石なき所に大石居り、山なき所に小山でき、久保なき所に久保できて、跡岩跡田跡久保跡石杯いい伝る所数をしらず程ありける。
三穂太郎光佐倒伏し、其死肉悉く腐りて墨となりぬ。
何国にても黒ぼこという土ありといえ共、此庄内に限り誠に黒き事摺墨の如くなり色の浅深あり又頼光其時微塵に砕て死にたりけり。
小菅戸姫ハ其後二人の菩提を弔らハんと尼と成山寺を建て、朝夕経念を唱へて住むゆへに、西原村に小菅戸屋敷あり、又頼光光奥様といへる地名今に残れり。
其後貴賎共に三穂太郎の亡霊を尊敬して、名義山細尾の絶頂に神殿を建立して、奈義大明神と敬ひ奉りけり。
後世に升形といふハ此宮地なり。是を勧請して関本村に、三穂大明神、又西原村に荒関大明神、沢村広岡村に杉大明神、高殿に御崎大明神、豊田の庄五ヶ村の神殿是なり、又三穂の字説多し山褒三保三歩三宝三穂杯申、正慶二年四月三日に美作国三穂太郎光佐の子孫其外一族三百餘騎、官軍に属して京都四条猪熊迄攻入、武田兵庫之助糟谷高橋が一千余騎の勢と時移る迄相戦ひて、有元四郎佐廣、同五郎佐光惣兵衛佐吉、福光彦治部佐長、原田彦三郎佐秀、広戸掃部之助家奥、弓削蔵人頼元、垪和六郎定宗、菅田七郎佐李、皆木佐京大夫長保、豊田修理之助為次、植月彦五郎重佐、梶並二郎三郎頼俊、大町主馬之助重遠、小坂六郎衛門保友、戸国八三五郎教保、森安三郎吉光、野々上兵衛盛行、多坂孫三郎久保、右手治郎通奥、江見四郎元盛、粟井三太夫盛次、松岡治部之助種孫、揚浅五郎成安、須江小五郎行重、和田又三郎爲元とか、菅原家の一族二十四名、二十六騎の人と能敵に馳合ニし皆々差遣て討死ヲぞしたりけり。前代未聞の忠戦とかんぜぬ人こそなかりけり。
終二官軍勝利を得たまひて京都六波羅伸時尊時、鎌倉の執権相模守高時、長門の探題、其外諸国一家北条従類脊属残らず折亡したまひて、公家一流の御代となりぬれば、戦功の人々の兄弟子孫に至る迄皆夫々に恩賞ヲ蒙りけり。
美作国菅家の来歴依テ斯之通り末世に書残しけり。
 三穂太郎記終 此本何方へ御取替候共 又かし無用
(1-3節ここまで/1-4節につづく)

 

1-4節:蛇淵の伝説
この物語は正慶二年四月、一族三百余騎を従えて官軍に属し賊軍武田兵庫之助が率いる一千余騎と京都四條猪の熊に戦い、はなばなしく討ち死した元弘の忠臣、さきに贈位の恩典に浴した美作菅家一族の祖先にまつわる恋の悲劇。
※注釈1-1j:蛇淵の伝説→『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会発行)より。本書によれば、底本は1968年4月、西山薫氏蔵の書写したものを転書した、原本は西原あたり?とある。(注釈1-1jここまで)

 

頃は弘長三年三月、連山の雪も溶けてここ菩提寺の境内、谷間洩れる鶯の音に、梅も散り花は桜の満開となった。
あちこちから杖をひく数限りのない花見遊山の客、その中に所も知らず名も知らず噂の種の女が一人あった。(本伝説の主人公三穂太郎満佐の実伝には彼女を次の如くいっている)
年の頃二八ばかりになる女、凡人とも見えず、白姿の小袖に上は唐綾を四季の模様に染め分け、春の弥生のあけぼの霞に匂い、梅ケ枝に初音を知らす鶯茶、左右の袖は夏来にけらし、白妙の卯の花に時鳥、腰の模様は目にはさやかに見えねども、秋の千秋の花紅葉、妻恋ふ塵も愛らしく、袖は難波や葦の葉に、積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に、鴛鴦の浮ねの思いは思い、揺られ揺られる風情して、露を含める海棠の、綻びかかる眼元にてかつらの眉墨細々と、たんかはの唇鮮やかに、芙蓉の眉尻いと気高く、誰が袖ふれん心地して、心ときめくばかりなる。
かくして彼女は朝の霞の中にぼんやり姿を現しては夕暮るる頃、何処となく消えてゆき、噂は噂を重ねるばかりで、花よ花よとたはむれる遊山客さえ、まだ一人として彼と話をしたものはなかった。
さてその謎の女、気高い天女は果して何人の為に手折られたであろう。
美作の菅家は菅原亟相道真二十余代の後胤が、故あってこの国に下らせ給い、子孫栄えて菅家の三流と称し、兄弟三人は勝田郡五ヶの庄を領していた。
うち豊田の庄の領主を菅原実兼と呼んだ。実兼は文武両道の良将で、殊に和歌の道に達し、なお稀にみる美男子であった。
この実兼が彼の女を見染めたわけである。
ここから歌のやりとりで話をすすめよう。
実兼は、「春雨に見る花なれど今年より 咲き始めたる心地こそすれ」と詠んで、僧長光になかだちを頼むわけである。
そして次の和歌を託すのである。
はぢも知れ涙の川の渡守 こぎゆく舟にまかす心を
技高き梢も折れば折れるらん およばぬ恋もなるとこそ聞く
長光坊はこの歌を持って彼の女にあい、その意を告げるがなかなか受けてくれない。
そこで長光坊は
言ひすつる言の葉までに情あれ ただいたずらに朽ち果つる身を
とよんだところ、彼の女は次の歌を返した。
心より心迷はす心なれ 心に心こころ許すな(女)
恋ふれども人の心の觧けぬには 結ばれながらかへる玉章(長光)
恋ふるとも主ある人は觧けまじき 結びの神の許しなければ(女)
これから実兼と女との間に恋歌のやりとりが行はれ、彼らの姿は毎日菩提寺境内に見られるようになった。
即ち次のような歌である。
哀れとて人の心に情あれな 数ならぬにはよらぬ歎きを(実兼)
哀れとて人の心に許あれ 数ならぬともままならぬ身を(女)
海も浅し山も眼になく吾恋を 何によそへて君に言はまし(実兼)
道ならむ道と思へば吾心 何によそへて君に答えん(女)
紅に涙の色のなり行くを 幾しほまでと君に問はばや(実兼)
一花に思ひ始めたる紅の 涙の色はさめもこそすれ(女)
こうして歌に、思いをかけているうち、慕情つのるばかりの実兼は、とうとう次の歌に、ほか八首を添へて彼女に渡した。
思へども合ふことかたき片糸の いかにいつまで結ばれるらん
ところがこれに答へて次の様うな判じ物が女からきた。
即ち「モ」の字が四字と「ノ」の字、その下へ弓張月と「刀」の絵をえがき、「心」といふ字があった。
実兼はこれを、二十三日夜忍ぶ、と觧してその日を待ち、遂に思いをとげたのであるが、その時「過ぎにし頃見染めて以来文、玉章こそ交わしたれど、何処の何人とも知らず、かく情の契りを結ぶからは、どうか心おきなく語って貰いたい」とかきくどいたのだが、女は唯許しを乞ふばかり、そこで
契りおき相見る夜半の睦言の 哀れを知らぬ鶏の聲かな(実兼)
と詠んで相逢うことの楽しさだけで満足したのである
そうこうするうちに、彼の女は玉の様な男の子を生みおとした。
名を太郎丸とつけ大切に育てた。
女は毎日通ってきては乳を呑ませるのだが、まだいずれの何者ともあかさない。
太郎丸が三オのとき、実兼は我慢が出来なくなって、さきに長光坊が「恋に呪いが含まれているからそれが罪になるのだ。そこに恋と愛との区別が有るわけだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛さねばならぬ」と論されていたのも忘れ、どうしても明かさぬ女に憤り怒ったところ、突然那岐嵐がゴーとたかまり、今まで乳を含ませていた女の姿は消え、太郎丸の懐に次の五首の歌が残されていた。
人たらで一たる人の人なさけ 人たる人の親となるらん(女)
逢いそめしうれしきことのありて又 ならひはつらき別れなりけり
身の上は浦島の子の玉手箱 あけてはさぞな悔しかるらん
君がためかりの契りを惜しまれて 数ならぬ身のあわれなりけり
恋しくば那岐の苔川住む身なり 変わる姿も一目逢ふなる
実兼は太郎丸を抱いて奈義川の淵にかけつけた。
霧は深く山々は鳴動してふと見ると向こうの山を八巻した大蛇の姿が眼にうつり。その顔だけは彼女であったという。
太郎丸が泣き乍ら指さす滝壺の中には、赤黄青白紫の五色の玉が浮かんでいた。
実兼がその五色の玉を拾い上げ、太郎丸に与えたところ泣いていた太郎丸はその玉を抱いて、母の手に抱かれた如く安らかであったという。
大蛇の巻いた山を八巻山と称し、玉は五色の玉と名づけて、菅家代々の名玉となった。
さて太郎丸はこの玉を身につけ成長して、飛行自在の通力叶い、三穂太郎満佐と呼びその名を天下に挙げ、この国にいながら京都洛中の守護、玄番頭の勅任を蒙つたといふ太郎は京都まで三歩で往復したから三歩太郎といはれた。
さて又太郎は成人すると近在の娘、小菅戸といふのに心をよせて日夜通っていたが、恋敵頼光といふ男が太郎の草履の裏に毒針をさしたがもとで熟に病み、非業の死をとげた。
この太郎の死が大変で、変化の正体を現し、五色の息を吹き、豊田庄内近郷四、五里四方、雲霧に閉ざされ、天地は震動して雷鳴の如く、暗いこと三夜に及び、那岐を枕にし、足は豊田の庄まで延び、大岩が散乱して石なきところに大岩が出来、山なきところに小山を作り奇異を生じた地方の口碑につたえる。なお勝北一帯火山灰土に変じたとも言ふ。
彼の黒土は、変化の吐いた黒血と死肉の黒く腐ったものと伝えられ、頼光は微塵にくだけて死んだという。
小菅戸は二人の菩提のため髪を下ろして尼となり、山寺に入り経書を佛の唱名に後世を送ったと言ふ。
今の西原村の内に、小菅戸屋敷又は頼光といふ地名が残っている。
その後里人は太郎の霊を尊敬して、那岐の項上に神殿を築き、奈義大明神と崇めた。
これを勧請して関本に三穂太郎大明神、西原に荒関大明神、広岡に杉大明神、高殿に御崎大明神あり、併せて豊田の庄五箇の神仏(?)といはれている。
(1-4節ここまで/第1章ここまで/第2章につづく)

 

第2章:実在の人物 菅原三穂太郎満佐

さんぶたろうは、人と大蛇の間に生まれた半神的英雄であり、仙術を自在に操り三歩で京まで通った異能の人とされているが、もちろん伝説の中の話である。
かつて美作地方東北部に、中世を通じて一大勢力をはっていた武士団があり、菅原氏の子孫を名乗り美作菅家党と呼ばれた。
菅原三穂太郎満佐はその祖であり、巨人さんぶたろうのモデルといわれている。
本稿はあくまで伝承上のさんぶたろうに対する考察をメインテーマにしているが、モデルになった人物とその時代背景を知ることは、伝説の中身やそれが成立する過程を想像する上で大いに参考になると思う。
そこで本章では、さんぶたろうのモデル三穂太郎満佐について紹介していきたい。

 

 

2-1節:三穂太郎は何者か?
『東作誌』所収の有元家略系図に、三穂太郎満佐について次のような記述がある。
(略系図ここから)菅丞相道真公八代(道真公子高視、其子緝熙、其子資忠、其子良正、其子薫宣、其子持賢、其子長頼)→菅原長頼の子 知頼(作州へ配流、美作守とす。嘉保年中作州勝田郡に卒す。是美作菅家之元祖)→真兼(美作押領使、保安元年庚子於久常村卒)→尚恕(民部介改是宗)→仲頼(菅四郎、高円大見丈城主)→満佐(仲頼実子)(略系図ここまで)
また、
満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也。満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行或云播州中山村佐用姫明神通妻妬而殺満佐干時天福二年甲子九月十五日満佐五十二才也満佐屍解飛去数仙不知其終干今祀其霊。豊田庄氏神矣関本亦三穂太明神之宮祠則祭日九月十五日也
とあり、これらの記述によると、満佐は菅原道真の子孫であり三穂太郎と号し、名木山(那岐山)に城を構え、豊田右馬頭の娘との間に七人の子をもうけたことになっており、また飛行の術を自在にあやつった異能の人であったともいう。
なお、文中の「屍解」とはおそらく「尸解」のことであろうと想像される。
「屍」と「尸」はどちらも音通で人間のしかばねをあらわす漢字であり、尸解とは死後、肉体をもったまま仙人になることである。満佐は死後、昇仙したのである。
今でも那岐山麓のどこかで、子孫たちの営みを静かに見守っているのかもしれない。
※注釈1-2b:『抱朴子』
東晋の神仙思想家葛洪(283~343)は『抱朴子』という後世の神仙思想に多大な影響を与えた書のなかで、『仙経』にいうとして、「上士は飛挙して虚空にのぼる。これを天仙という。中士は名山に遊ぶ。これを地仙という。下士はまず死んで、そののち蛻(もぬ)く。これを尸解仙という。」と述べ、いったん死んで亡骸を脱ぎ捨てた後、しばらくして再び肉体を取り戻して復活することで不老不死になった者を「尸解仙」という、とある。内篇20篇、外篇50編からなり、内篇では主に仙人になるための理論と実践が述べられている。(注釈1-2bここまで)

 

また同じく植月家略系図には
(略系図ここから)菅原道真公(菅亟相道真公男延喜元年辛酉美作国下向無帰而卒作州菅家之祖菅公之子男女凡二十四人)→真俊→好直→矩直→直賢→行泰(延喜承徳之間百九十餘年美作国勝田郡豊田庄為処士)→仲頼→康政→高堅→公興(民部輔五位下七十二代後鳥羽院建久九年戌午領知作州勝田郡続父学才)→満佐(三宝太郎叙従五位下美作国勝田郡是宗城主云々)(略系図ここまで)
とあることから、菅原道真の子孫にして三宝太郎と号し、是宗城主であったことになる。
文化10(814)年ごろ皆木保実によって著された『白玉拾』豊田庄是宗村の項に
三穂太郎は、豊田修理之進の聟と云い、菅家七流の祖と聞伝ふる
という記述がみられる。
三穂太郎が三宝太郎、名木山城が是宗城、妻の父親が豊田右馬頭であるところを豊田修理之進になっているなど細部はことなるが、総合すると満佐は、菅原道真の子孫を名乗り、代々那岐山麓一帯に勢力を張る地方領主の一人であり、菅家七流の祖であることでおおむね一致している。
※注釈1-2c:菅家七流
一般に有元、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の家を指すといわれ、廣戸のかわりに野上、鷹取のかわりに豊田とする説もある。また福元、弓削、垪加、菅田などを加える場合もある。(注釈1-2cここまで)

満佐はいったいいつごろに生きた人だったのか。
系図は編纂者の都合でさまざまな改ざんが加えられるのが常であるから、本当のところはわからないとしかいいようがない(満佐にしても、有元略系と植月略系ではすでに内容が異なる)が、仮に当時の平均寿命を約50年、家督を譲られてから約20年で世代交代するとして、『東作誌』有元家略系図中、満佐の三代前、保安元(1120)年卒の真兼を基準にすると満佐は1160年代から80年代にかけて活躍した人ということになる。
また、有元略系には天福2(234=文歴元年と改元)年52歳卒とあるので、逆算すると寿永2(1182)年に生まれたことになり、先の概算と活躍年に60~80年ほどのずれを生ずる。
その他、『美作略史』では文歴2(1235)年卒、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』では父実兼と母が弘長3(1263)年に出会い、まもなく生まれたことになっているので、太郎は1263~4年生まれになる。50歳で死んだとすれば1310年代前半である。
※注釈1-2d:『美作略史』
全4巻。矢吹正則著;矢吹金一郎校正。明治14(1881)年発行。和銅6(713)年から明治4(1871)年に至る美作地方の歴史を編年体で記録した歴史書。本稿は『美作略史』(1976年、名著出版刊)のものを参考にした。(注釈1-2dここまで)

ごらんのように、資料によって満佐の活躍年代にはかなりの時代的隔たりがみられるが、仮に『東作誌』有元家略系図によれば鎌倉時代中期、『蛇淵の伝説』『三穂太郎記』によれば鎌倉時代末期の人ということになる。
(2-1節ここまで/2-2節につづく)

 

2-2節:太郎の母は何者か?
伝承によればさんぶたろうの母は蛇精であったと伝えられている。
太郎の母がなぜ大蛇なのか、またなぜ太郎が巨人でなければならなかったか、その意味については第二部以降で推理するとして、ここでは系図上の母親の出自について考えてみたい。
『東作誌』是宗村の項に次のような記述がある。
相伝う近藤武者是宗景頼の子宇合筑後守頼資保元の乱に新院に興し奉り作州豊田庄に被配流、其邑を近藤村と称す。
或は云う平治の乱に近藤武者是宗此国に来り死す。近藤村と云う。是宗村と云ふ。其の子二人あり兄公資。(一説に父は頼資藤性母は二階堂維行女なり)
二男公継此の二子を連れて有元家にす。

 

またおなじく『東作誌』所収の有元家略系図にも次のような記述があり、先の記述と一致する。
(略系図ここから)仲頼(菅四郎 高円村大見丈城主)
→公資(実筑後守藤原頼資子 母二階堂維行女)
→公継(頼資二男公資弟)
→満佐(仲頼実子改兼真三穂太郎名木山城主、妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流祖也。)(略系図ここまで)
※注釈1-2a:『東作誌』
正木兵馬輝雄著。文化12(1815)年成立。著者の正木輝雄は津山藩士であり、元禄4(1691)年成立の地誌『作陽誌』(江村宗晋撰;長尾隼人勝明編。美作国の西6郡のみで未完に終わっている)を補うため、東6郡(東南条、東北条、勝北、勝南、吉野、英田)の地誌として編纂された。異本が多数存在するが、本稿は『新訂作陽誌』全8巻(作陽新報社刊)所収のものを参考にした。
これらによると太郎の母はもと二階堂姓であり、保元の乱の折、敗れた新院(崇徳天皇)側に与していたため作州へ配流された最初の夫藤原(宇合)頼資とともに奈義の地にやってきたことになっている。(注釈1-2aここまで)
※注釈1-2e:満佐の子孫が有元姓を名乗ったのは、名木(那岐)山のふもと[元]に[有]ったからとも、宇合氏の血が入ったため(宇合・有元とも、音読みではウガン)ともいわれている。(注釈1-2eここまで)

その後夫は亡くなり、太郎の母は二人の息子公資、公継を連れて有元氏に嫁ぐことになるが、そこで生まれたのが太郎丸、後の三穂太郎満佐である。
つまり、仲頼にとって初めての実息が満佐であり、三男満佐の幼名が長男をあらわす「太郎丸」であることは、そのあたりの事情によるのだろう。
有元家略系図の名が出てきたので系図中、「外祖」とされる人物についても少し触れておくと、満佐が藤原千方(ふじわらのちかた)から仙術を伝授され、自在に空を飛んだという記述がある。
藤原千方は『太平記』巻十六日本朝敵ノ事によれば、
天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者ありて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふを使えり。伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因りて紀朝雄・宣旨を奉じて下り討ち、千方遂に殺さる。
※注釈1-2f:天智天皇の御宇→金勝院本では、恒武天皇とされる。(注釈1-2fここまで)

また『准后伊賀記』に
藤原千方朝臣・村上天皇の御宇、正二位を望みしに、其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉つて、伊賀国霧生郷へ籠居す。紀朝雄と云ふ人・副将軍となりて之を討つ。

とあり金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼の力を操り朝廷に反逆し、伊賀伊勢両国を支配したといわれる伝説の人として、『太平記』では平将門、平清盛らに比肩される朝敵の一人として挙げられている。
※注釈1-2g:『尊卑文脈』によれば、藤原秀郷(ムカデ退治で有名な俵藤太である)の孫に千方という人物があり、村上天皇の治世とほぼ一致する。ただし、知られる限り正史にはこの千方が反乱を起こしたという記録はない。(注釈1-2gここまで)

千方は天智天皇(662~671)の御宇の人とも平安時代の人ともいわれ確かなことはわかっていない。どちらにしても太郎の生きた鎌倉時代とは隔たりがあるが、朝廷軍を退けるほどの方術の持ち主であるから、異常な長寿であったとされたのかもしれない。
ちなみに千方が使役した四鬼は、式神(しきがみ。陰陽道で術者に使役される精霊。識神とも)とも忍者ともいわれている。
話を戻そう。
満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也
満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行・・・

有元家略系図で千方は「外祖」と呼ばれている。はじめ母の前夫藤原氏と同姓であることから、その父親(満佐の祖父)とも考えたが、外祖は外祖父、つまり母方の祖父をあらわす言葉であり、つじつまがあわない。
母方の二階堂氏との関係も考えたが、先に述べたように系図上母方の祖父は二階堂維行である。
仮に千方が父方に連なる人物であるとすれば、兄にとって血のつながった祖父、母の義父であり、満佐にとっても血縁関係こそないもののつながりのある人物という程度の意味で「外祖」と表現されているのかも知れない。
あるいは二階堂氏は元をたどれば藤原姓であるから、同姓の千方に仮託して太郎の不思議な能力を権威づけしようとしたとも考えられる。
※注釈1-2h:『美作太平記』などによれば、宇合頼資の先祖は俵藤太とされており、そこに連なる千方(1-2gでいう朝敵でない方の)とも系図上つながることになる。同姓同名の千方どうしを二重三重にひっかけているのかも知れない。(注釈1-2hここまで)
(2-2節ここまで/第2章ここまで/閑話休題(1)につづく)

 

閑話休題(1):たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて
満佐が菅原道真の子孫であることは先に述べたが、伝承中、彼が菅原氏であることと無関係でないと思われる興味深い記述がみられるのであわせて紹介しておく。
伝説ではさんぶたろうが死んだとき、その亡骸のうち頭部は関本の里(=三穂大明神。こうべさま)、胴体は西原の里(=荒関大明神。あらせきさま)にとどまったが、かいな、つまり肩と腕の部分だけがどういうわけか、那岐山を飛び越えて遠く、現在の鳥取県八頭郡智頭町土師にたどりついたことになっている。
さんぶたろうのかいなが祀られた場所は現在の河野神社といわれており、「にゃくいちさま」の名で親しまれている。
手足の病気に御利益のある神社といわれているのも伝承に関係あると思われる。
ところで、中国山地を挟んだ反対側にある河野神社とさんぶたろうの伝説がむすびつくのはなぜだろうか?
河野神社の祭神若一王子は、もと熊野から勧請された神格で、熊野権現の第一王子とされる。
 仏・菩薩が人間世界に権能(ちから)を及ぼすために日本の神の形を借りて現れたものを「権現」といい、熊野権現の御子である若一王子自身、正体は天照大御神あるいは泥土煮尊(ウヒヂニノミコト)であり、十一面観音菩薩を本地とする。
神が化身した聖なる童(=王子神)に対する信仰を「王子信仰」という。
子供に聖なる力が宿るという信仰は古くからあり、『日本書紀』神代上第五段にはすでに、海神(わだつみ)をあらわす「少童」という表現が見えるし、八幡神などは化身である鍛冶の翁の童姿で現れたりしている。
鍛冶の翁は、自分のことを応神天皇であると託宣を下したといわれており、これは応神天皇が幼時から不思議な力を発揮したことに関係あると考えられる。
若宮信仰、御子神信仰などもこれらの延長線上にあるといえる。
※注釈k1-b:『扶桑略記』第三欽明天皇三十二(571)年辛卯正月一日条によれば、宇佐八幡縁起によるとして、
又同比(おなじころ)、八幡大明神筑紫に顕わる。豊前國宇佐郡厩峯(まきのみね)と菱瀉池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁あり。甚だ奇異なり。之に因りて大神の比義は穀を絶ちて三年籠居し、即ち御幣を捧げ祈りて云わく。若汝(もしなんじ)神ならば我が前に顕わるべしと。即ち三才の少児と現れ、竹の葉に立ちて託宣して云わく。我れは是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡麿なり。
とある。なお誉田天皇とは誉田別尊(ホンダワケノミコト)=応神天皇のこと。(注釈k1-bここまで)

 

また王子神は、しばしば巫女的な性質を持つ母親とセットで母子神として信仰される場合が多く、たろうを王子神、大蛇(=母)を巫女的母に当てはめると、両者がよく似た関係にあることに気づかれるだろう
※注釈k1-c:先に述べた応神天皇(誉田別尊)と、その母神功皇后(息長足媛〔オキナガタラシヒメ〕)の関係などはその一例である。(注釈k1-cここまで)

河野神社の若一王子権現がいつごろ勧請され、どのような経緯でさんぶたろうと結び付けられたか定かでないが、王子神の霊威を物語に導入するため、意識的に両者を結びつけたのかもしれない。
他にも理由は考えられる。
仮に伝説の記述が歴史的事実の投影だとすれば、たとえばにゃくいちさまの霊験(はっきりしたことはわからないが、手形足形など症状のある部位をかたどった形代を奉納する風習は四百年ほど前からのことらしい)だけでなく、もしかしたら「土師」の地名それ自体とも無関係でないかもしれない。
というのも、さんぶたろうの祖先菅原氏の系譜をさかのぼると、古代の土木・葬礼集団土師氏にたどりつくからである。
『日本書紀』垂仁天皇三十二年条には、天皇の陵墓を作るにあたり土師氏の始祖が出雲国の土部(はじべ)を集め、「埴(はにつち)を取りて、人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)」って殉死にかえたとあり、この功績によりもとの姓をあらため「土師臣(はじのおみ)」を名乗っている。
この記述をみてもわかるとおり文字どおり土を司る集団であり、古代においては陵墓の造営、土器(土師器)製作などにたずさわった。
その後、『続日本紀』天応元年六月壬子条によれば、土師宿禰古人・道長ら十五名が、葬儀や墓づくりなど凶事ばかりにかかわるのは自分たちの本意ではないとして、支配地の一つ、大和国添下郡菅原郷(現在の奈良市菅原町一帯)にちなみ、菅原氏に改姓することを誓願し許されている。
因幡国(鳥取県)には土師氏にかかわる地名が数多く残っており、たとえば鳥取市内では大野見宿禰神社、智頭町では埴師(はにし)、同じ八頭郡郡家町には土師川などの名が残っており、八頭郡一帯に土師氏の支配が及んでいたことがわかる。
以上のことから、さんぶたろうの腕が那岐山を飛び越えて因幡国にたどりつくエピソードは、にゃくいち様とさんぶたろうに共通する母子神としての性格に加え、土師郷周辺が菅原氏に関わり深い土地であることを暗示しているとも考えられはしないだろうか。
『東作誌』を見ると、現在の奈義町にあたる地域に限っても童子神を祭る神社が多数見られ、その霊威とさんぶたろうを結びつけるだけなら、河野神社の若一王子権現の名を持ち出さずとも、これら近在の社でよいはずだからである
※注釈k1-e:町内の王子社
馬桑村の御子神、今若宮、小坂村の若宮、王子権現、皆木村の若宮二社、近藤村の大領権現〔祭神熊野権現。母御の宮、十二社権現、新宮、本宮、那智、当御霊、稲荷社等あり〕、沢村の若宮八幡、中島村の若王寺権現、荒内村東分の王子権現〔中島村入会の地也中島西荒内東小氏神祭神八王寺〕、荒内村西分の王子社など。
なお若宮とは一般に主祭神〔親神、本宮〕の御子神〔新宮〕を祀ることで、民間信仰では非業の死を遂げて御霊〔祟り神〕となった人の魂をいい、祟りの激しい御霊を、より霊威の強い神霊の若宮〔御子神〕として祀ることにより、祟りを鎮める信仰のことをいう。(注釈k1-eここまで)
(閑話休題(1)ここまで/閑話休題(2)につづく)

 

閑話休題(2):ナーギニー=インドの蛇女神
インド生まれのナーガ【Naga】k-1aという神がある。
紀元前200年頃に成立したバラモン教の聖典のひとつ『リグ・ヴェーダ』(リグは賛歌、ヴェーダは聖典。つまり神々の賛歌であり、創造神話である)の中にたびたび現れる強力な種族である。
※注釈k-1a:ナーガはサンスクリット語で「蛇」を意味し、コブラを神格化したもの。ヴェーダの神々と同様、超越的な存在ではあるが、正確には神々とは異なる存在である。(左本文では便宜上「神」と記述している)神々と人間の敵対者であり、協力者でもある。(注釈k-1aここまで)

 

もとはアーリア人の間で信仰され(あるいは先住ドラヴィダ人の時代、すでに原形が出来上がっていたともいわれる)、現在でもヒンドゥー教の神としてインド文化圏で広く信仰されている。
また仏教とともに中国に渡ったナーガは、天龍八部衆に加えられて竜王と同一視されるようになる。奈良興福寺にある国宝天龍八部衆像の一体である沙羯羅竜王などがそうである。
※注釈k2-b:天龍八部衆
仏法を守護する8つの種族。天・龍〔梵語Nagaの音訳〕・夜叉〔Yaksa〕・乾闥娑〔Gandharva〕・阿修羅〔Asura〕・迦樓羅〔Garuda〕・緊那羅〔Kimnara〕・摩羅迦〔Mahoraga〕。(注釈k2-bここまで)
※注釈k2-c:沙羯羅竜王は沙迦羅ともいい、サンスクリット語で海を意味するサーガラ〔Sagara〕の音訳。あるいは摩羅迦ともいい、サンスクリット語のマホーラガ〔Mahoraga〕の音訳で、大腹行(だいふくぎょう)、大蟒神(だいほんじん)と訳される。(注釈k2-cここまで)

これが那岐の語源にどう関係あるかというと、古代インドの雅語(主に貴族や神官が用いた)サンスクリット語で蛇を意味するナーガの女性形をナーギニーというのである。また地域によってナーギニーはナーギとも呼ばれるそうである。
蛇である上に「ナーギ」。まるで言葉遊びだが、海を渡った女神が、安住の地を求めてたどり着いた東の島国で大地の守り神になる・・・これだけで物語のネタがひとつできそうではある。
(閑話休題(2)ここまで/閑話休題(3)につづく)

 

閑話休題(3):ふたりの太郎=さんぶたろうと小泉小太郎
「小泉小太郎」の伝説をご存じだろうか。
またの名を白龍太郎、泉小太郎とも呼ばれ、主に信州、奥信濃一帯に分布する伝説であり、松谷みよ子さんの童話(創作民話)で、1979年にアニメ映画にもなった「竜の子太郎」のモデルといわれている。
※注釈k3-a:松谷みよ子著『竜の子太郎』(長編童話)講談社,1960.(注釈k3-aここまで)

 

小泉小太郎とさんぶたろうの伝説を比較すると、母である竜神(大蛇)から生まれた息子(さんぶたろう、小泉小太郎)が、母から授けられた力で世界を創造する、というよく似たストーリーの構造を持っており、また、その他にも類似点が多いことに気づかされるのである。
※注釈k3-b:信州は、地下の国に降った後、大蛇(龍神)になって地上に戻ってきた甲賀三郎など、蛇に関する伝説が数多く残っている地域でもある。(注釈k3-bここまで)

小泉小太郎の伝説には、地域によってさまざまなバリエーションがあるが、『日本の民話17信濃の民話』瀬川拓男氏の再話によると、概ね次のような内容である。
※注釈k3-c:「信濃の民話」編集委員会編;江馬三枝子編『定本日本の民話17信濃の民話 飛?の民話』未来社 1995.5.該当ページはp.175~183.(注釈k3-cここまで)

むかし独鈷山というけわしい山に、若い坊さまのすむ寺があった。いつの頃からかその坊さまのところへ美しい女が通ってくるようになった。
不思議に思った坊さまは、ある夜、そっと女の着物に糸のついた縫針をさしておいた。
夜があけてみると、糸は庭をぬけて山の沢を下り、産川の上流にある鞍淵の大きな石のところまでつづいていた。
ふと岩の上を見ると、生まれたばかりの赤児を背にのせた大蛇が苦しそうにのたうっている。大蛇は坊さまに気がつくと、「こんな姿を見られては生きていることはできない。針をさされたので鉄の毒も体にまわった。どうかこの子をたのみ申します。」といって赤児を岩の上におろし、ざざーっと水煙をあげて淵の中へ姿を消してしまった。
坊さまは恐ろしさに震え上がり、赤児をそこに残し、逃げ帰った。

その後、大水で川に流された小太郎は、小泉村というところで婆さまに拾われて育ち、湖に住む母(大蛇=犀龍)と再会し、協力して湖をせき止めている山を切り崩し、土地を開拓することになる。
なお、湖から流れ出た水は犀川になり、湖が干上がって生まれた土地は、現在の松本、安曇の両平野になったといわれている。

伝説では、小泉小太郎の母(大蛇=犀龍)が住む湖は、周囲を山に囲まれており、大昔に天の神が練っていた五色の石のかけらが地上に降ったとき、えぐれてできたのがこの湖で、飛び散った石のかけらが周囲の山になったとされている。
また、別の伝説では、天の神を「女神?氏」としており、五色の石で天の裂け目を修復した中国の女神女?氏のことであろうと考えられる。
なお、五色の石は、陰陽五行説でいう世界を構成する五つの要素〔エレメント〕であり、世界を創造する力の象徴と考えられる。
※注釈k3-d:長野県図書館協会編『信濃伝説集 信州の伝説と子どもたち』(信州の名著復刊シリーズ2)一草舎 2008.該当ページはp.198-199.(注釈k3-dここまで)
※注釈k3-e:さんぶたろうと女?のつながり、陰陽五行説との関連性については、『大いなる巨人の伝説』第2部本編で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-eここまで)

このように、母が竜神(大蛇・蛇神)であること、母子神としての性質を備えていること、息子が母から受け継いだ創世の力を操り、治水や開墾などの偉業を成すことなど、多くの点でふたつの伝説は共通しているのである。
※注釈k3-f:さんぶたろう親子の母子神としての性格については、『大いなる巨人の伝説』第1部所収の「閑話休題(1)たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて」で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-fここまで)

美作と信濃という、離れた地域のふたつの伝説に以上のような共通点が見られるのは大変興味深いことであり、今後、その成立過程を比較していくことで、ストーリーの共通点以上の、何らかのつながりが見えてくる可能性も考えられる。
(閑話休題(3)ここまで/引用・参考文献につづく)

 

引用・参考文献

本稿をまとめるにあたり、次の資料を参考にさせていただきました。刊行年、ページ数などの書誌事項は、本稿で使用した版によります。これ以降、最新の版が刊行されている場合もあります。
・奈義町教育委員会編『さんぶ太郎考』(奈義町教育委員会資料7),奈義町(岡山県)奈義町教育委員会,1985年.
・正木輝雄著;矢吹正則著『新訂作陽誌4~8』落合町(岡山県),作陽新報社,1975年.※作陽古書刊行会大正元年刊の復刻版.
・正木輝雄著述『美作誌 前編(東作誌)』岡山,石原書店,1912年.
・皆木保実著『美作諸家姓名約景図』[皆木保実],刊行年不明.
・『日本歴史地名大系 34(岡山県)』,東京,平凡社,1988年.
・美作国神社資料刊行会[編集];藤巻正之編集『美作国神社資料』岡山県神職会美作五郡支部神職会,1920年.※岡山県神職会美作五郡支部神職会大正9年刊の複製.
・竹内治一著『私説美作略史』[(茨木)竹内治一],1979年.
・岡山県歴史人物事典編纂委員会編集『岡山県歴史人物事典』岡山,山陽新聞社,1994年.
(引用・参考文献ここまで/本文終わり)

 

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