子育て・教育・文化
最終更新日時:2021年7月27日
地下芝居は、江戸時代末期から昭和初期にかけて大流行をします。しかし、戦後の高度経済成長期には新たな娯楽の誕生により次第に衰退をしてゆきます。
江戸時代の人々の生活は“法度”と呼ばれる、今の法律に当たるもので事細かに取り決めがされていました。例えば、職業の選択、出版や集会、普段の着物や食べ物や旅行にいたるまで、たくさんの制限がされ、厳しく取り締まりがされていました。
もちろん農民たちの娯楽についての法度が作られ、取締りが行われました。
農民たちによる歌舞伎ももちろん取締の対象で、農民たちは取り締まりにも屈することなく芝居を続けました。取締りとは言っても、10日から半月の自宅謹慎や、髪を剃りおとされる程度の軽い罰で、若者達はその罰を受けて「一人前だ」とむしろ進んで受けたというような記録もあります。
とは言っても自由に歌舞伎の上演をすることはできず、春秋の村の氏神の祭りと連動し、「神さまへ奉納」という形で歌舞伎を上演しました。
そのために、各村の神社の境内には歌舞伎専用の舞台が建てられ、往時には奈義町だけでも十数棟を数えるほどでした。
地下芝居の公演はたいてい夕方から夜更けまで行われました。人々は酒肴を持ち寄り、桟敷席に広げ、飲み食いをしながら地下芝居を楽しみました。各神社で地下芝居を行うため、祭りの季節は毎日どこかで芝居があり、若者達は出会いを求め出かけ、地下芝居は農村の社交場として大切なものでした。
しかし、第二次世界大戦前後の混乱とその後の高度経済成長期には、農村からの人口流出や、映画やテレビなど新たな娯楽の誕生などにより、地下芝居は次第に衰退しその姿を消して行きました。
各村の神社舞台も老朽化が進み、省みられることなく取り壊されて行き、地下芝居の伝統は一気に衰退をしていきました。
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