浄土宗知恩院派の寺院で、浄土宗の開祖・法然上人が9歳から13歳まで修行を行った「法然上人初学の地」として知られていますが、本寺院は7世紀に役(えんの)小角(おづぬ)が修行の行場として開き、その後奈良時代に行基(ぎょうき)が全国行脚の途中ここに立ち寄り、十一面観音を刻んで中堂に安置したといわれています。
奈良時代には七堂(しちどう)伽藍(がらん)三十六坊を誇る山岳仏教の拠点として栄えたといわれており、今も長い参道の左右や境域にはそれとわかる平坦な地があって、往時の繁栄の後をしのぶことが出来ます。幾度もの兵火に合い、また、江戸時代の後期には火災により、鐘楼を残し焼失してしまい、明治の初めには無壇無禄の廃寺となりましたが、その後地元の人々によって明治14年に再興されました。
本堂の天井には彩色された家紋が300以上も並んでおり、明治時代の寺院復興の際に、寺に寄進された方々の家紋であるといわれ、法然上人の生家の漆間(うるま)家の家紋も残されております。
寺の中には法然上人の座像と幼少期の勢至(せいし)丸(まる)(法然上人の幼名)の座像があります。
勢至丸の座像の箱についている紋は、浄土宗の宗紋で「月影(つきかげ)杏(ぎょ)葉(よう)」と呼ばれる紋です。杏(ぎょ)葉(よう)とは馬具の装飾品で、法然上人の生家の漆間家の家紋である杏葉の紋に由来し、そこに宗歌「月かげ」の月を配したものが現在の宗紋となっています。また、徳川将軍のご位牌があるのは、徳川家康が浄土宗であったため、浄土宗にのみ三つ葉葵の紋の使用が許されています。
この大イチョウは国の天然記念物(昭和3年)に指定されている県下唯一の樹木で、新日本名木100選(平成元年 読売新聞)にも選ばれています。樹高約40メートル、周囲約13メートル、推定樹齢900年の県下最大級の巨樹です。
この大イチョウは、浄土宗の開祖・法然上人のお手植えとされています。法然上人は9歳の時に、生家のある久米南町(現在の誕生寺)で父親を夜襲により殺害されますが、父時国(ときくに)の「恨むな」という遺言により、叔父歓(かん)覚(がく)上人(しょうにん)のいるこの菩提寺へ預けられ、仏門の道へと進みます。当時幼い法然上人は久米南町から歩いてこの菩提寺をめざし、ふもとにある阿弥陀堂へ一泊し、翌日山を登るために阿弥陀堂にあるイチョウの枝を杖にして登り、この枝を「学成れば根付けよ」と境内に挿したものが現在の大イチョウになったと言われています。現在もふもとの阿弥陀堂には「親木」と言われているイチョウの木があり、平成25年にこれらの樹木のDNA鑑定を行い、菩提寺の大イチョウが阿弥陀堂の大イチョウの分身であることが立証され、地元に伝わる伝承を裏付けるものとなりました。
また、大イチョウの後ろの法面にあるイチョウの木は、この大イチョウの枝が大雪で折れて刺さったものが育ったといわれており、DNAも一致しています。大イチョウの陰に隠れてあまり目立ちませんが、樹齢230年の立派な大木です。
イチョウの西側に広がる杉木立の中、実が他とは違う2本並んだ杉の木があります。町の天然記念物に指定されている木で、名前を広葉(こうよう)杉(ざん)といいます。中国原産で、もともと台湾などの温かい所に生育する杉で、江戸時代に日本に伝わり建材用に栽培されたといわれており、樹齢200年、樹高は共に35mを超える県北においても数少ない樹木のひとつです。
この地には幸福寺という名の寺があったと伝えられ、東作誌にも記されていますが、詳細は不明です。
浄土宗の開祖、法然上人(幼名:勢至(せいし)丸(まる))が菩提寺に向かう途中にこの寺に立ち寄り、このイチョウの枝を杖に菩提寺へ向かい、自身の学業成就を祈願して「学成れば根付けよ」と自ら境内に挿したものが菩提寺の大イチョウであると伝えられています。そのため、小坂阿弥陀堂の大イチョウは、菩提寺の大イチョウの親木と呼ばれており、地元では、この親木と菩提寺のイチョウの黄葉時期は同時期になるといわれています。
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