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子育て・教育・文化

地下芝居の誕生

奈義町には江戸時代から途絶えることなく「地下芝居(じげしばい)」の伝統が伝わっています。玄人役者による地方への芝居興行をこの地方では「買い芝居」と呼び、反対に地元の人々で演じる素人芝居を「地下芝居」と呼び区別しました。
全国的には「地芝居(じしばい)」と呼ばれますが意味はまったく同じです。

昭和30年公演の様子昭和30年記念撮影

1603年に徳川家康によって開かれた江戸幕府はそのご260年以上に渡る平和の時代を築きました。戦乱の無い世の中では、文化が発展し、たくさんの芸能、芸術が生まれ育っていきました。
歌舞伎もそのひとつで、1600年頃、京都で出雲の巫女“阿国”の一座が始めた「かぶき踊り」が起源とされています。
かぶきには現在“歌舞伎”の漢字があてられますが、もともとは、「傾(かぶく)」の字があてられ、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した言葉で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言い、それまでの能に代表される上流階級だけのものだった芸能でなく、庶民の生活の中から生まれたエネルギッシュなものでした。
お国のかぶき踊りは、女性だけで、派手な衣装で、鐘を打ち鳴らし、当時流行した「念仏節」に併せ、時には肌もあらわに踊る躍動的な舞踊劇でした。お国一座はすぐさま大人気となりましたが「風紀を乱す」という理由で禁止され、やがて現在の男性だけで行われる歌舞伎に進化をしました。
男性だけで、出演するすべての役柄を演じることで、独特の演出と様々な工夫が生まれ、人形浄瑠璃のための戯曲を脚色することで、重厚長大なストーリーを手にし、歌舞伎は能・狂言、人形浄瑠璃と並び日本の三大芸能として世界からも高い評価を受けるようになっていきます。
歌舞伎はやがて江戸時代中期頃から、上方(大阪)や江戸(東京)を中心に地方に広がって行きました。この地方へも、播州や出雲の芝居が頻繁に興行に訪れていました。玄人の芝居を見た農民たちは最初“見よう見まね”で始めたのがこの地方の「地下芝居」の始まりと云われています。地下芝居は、農民の数少ない娯楽として、江戸時代末期から明治、大正、昭和と隆盛を極めて行きます。

出雲の阿国昭和40年公演の様子昔の公演の様子

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電話番号:0868-36-3034

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