≪うつろひ-a moment of movement≫
「在る」と「無い」を渡る。〈これ〉、「心」とはそうしたものではないだろうか。路地を影法師がよぎり、薫風が頬をなで、空の高みを鱗雲(うろこぐも)が渡って行く。〈あなた〉は誰か。何の告知(しらせ)なのか〈あれ〉、「気」というのだろうか、何と言って名付け難い〈気配〉、それが「在る」ことのいとおしさをいつも私たちに教えている。
≪うつろひ≫たちのたたずまい。しなやかでかつ剛性に富むステンレスのワイヤーの弧の連なり。ステージを想わせる〈中庭〉のような方形の水の上。その後方の梁壁で枠取られた〈後景〉の水の上。そして長い廊下のような部屋のなかへ。
溝ち溢れる外光から、光が差し込みながらもだんだんと闇のほうへ。陽から陰へのグラデーション。移り行き。水平だが地上から地下へと変容するかのような細長い部屋。「大地」という事態とは地面の上や表層のことだけではなく、受け止めてくれる充分な〈拡がりと厚みに包まれる〉ことである。上と下、外と内、時と場所。それらの移り行きの拡がりと厚み。その光と影のなかに立ち現われる≪うつろひ≫の群れ。
水、鏡のような水。敷き詰められた黒い石。壁に沿って真直ぐに続く石板の〈廊下〉を歩いて行く。ここはなぜか懐かしい縁側のようでもある。河原のように石を敷き詰めた庭に降りて≪うつろひ≫にいれてもらうのも良い。語らい、そして…。
屋外では風も立つ。それは揺れる。陽は渡り、影も移る。屋内では光と影にたたずむ。愛しい生命の飛行の軌跡のように。現われては消える旋律の掛け合いのように。回転しながら飛躍を続ける踊り手たちのように。たたずみ、繋り、渡る。人は何処からともなくここに来て、たたずみ、歩み、去って行く。何かが再び見出され持ち帰られる。
神話の世界に遊ぶのもよいだろう。大地の女神・母なるガイア黄泉(よもつ)平坂、冥府巡り。山、風神・雷神。湖、龍神…。そういう〈もの〉の物語にも託されて語られてきた〈気配〉。〈自然〉としか良い呼び名のない〈こと〉。
改めて言うまでもなく、森羅万象が移ろって行く。全ての移ろって行くものたちの残す余韻は全感覚的な出来事である。懐かしい記憶、あるいは淡い予感、何といって名付け難い気配。それらはきっと、〈無い〉ことに支えられた〈在る〉ことのいとおしさを私達に教えてきたのだ。それは「秋草の美学」とか「うつろひの美学」とか呼ばれる日本の美学かもしれない。しかしそれは淡白なだけではない。濃密度をもった闇と光の美学でもある。生死の間にある位相。〈ある〉と〈ない〉を渡る生命。あるいは〈ない〉に支えられた〈ある〉ことのいとおしさ。〈あはれ〉。
<『奈義町現代美術館』常設カタログ「3つの会話 高橋幸次(東京国立近代美術館研究員)」より抜粋>
霊(たましい)は
水さながらに
天から降りて
天にのぼり
そして、また
地にくだる
はてしなくめぐりめぐって
─ゲーテ「水の上の霊の詩」
私は、さまざまな「うつろひ」の彫刻を、さまざまな異なる空間につくってきたのですが、この彫刻をつくるきっかけとなった最初のドローイングでは、虚空に線を描くかのように、のびのびとした自由な魂-中国語でいう「気」を表わしたいと願ったのでした。古代の中国人は、万物は「気」によって構成されると考えていたようですが、この思想を体系的にまとめたものとして『准南子』天文訓があります。これには、最初に虚空があり、虚空のうちに宇宙が生まれ、宇宙のうちに「気」が生じ、「気」のうち、軽くて透明なものはうすくたなびいて天となり、古く濁ったものは、沈み固まって地となり、陰陽二気が生じ、そこから万物が生成されていくと、説かれています。
彫刻というもののもつ重々しさから離れて、鳥の飛翔のように自由なものをつくりたいと願い、私は、奈義の地と水との関わりを主眼としたいと思っています。
宮脇 愛子